カップ麺と牛丼とコンビニ弁当のみで過ごしていた私が突然健康オタクに目覚めたわけ。
健康維持のためには何よりも「質」を見極めたいと思っている私ですが、数年前、まだ独身でバリバリ働いている頃の食事といえば
「質」<<<<<「量」<<<「値段」
接客業だったのですが、店長をしていたこともあり、出勤していざ店に立つと水を飲む暇さえないほどの忙しさで1日があっという間でした。
月末処理に終われると泊まり込みで作業することもあったりという、THE激務。
昼休憩さえまともに取れない日もあり、隙を見てとにかく何かしらを胃に詰め込むのが精一杯という状況がザラにあったため、出勤前にコンビニで買うのはおにぎりやパン、ゼリー、ヨーグルトばかり…。
たまに30分休憩が取れる日はチェーンの牛丼屋、1時間休憩が取れる日はワクワクしながら人気のラーメン屋に足を運ぶのが楽しみで、勤務が終わると「1杯だけね!」と言いながら居酒屋に寄ってから帰るのでした。
そんな食生活を送っていた頃の私
月の半分は頭痛や鼻水、下痢などで体調が優れず、生理痛は毎回のたうち回るほど。
とにかく疲れが取れないので、貴重な休日はマッサージの予約から始まり、予約時間に合わせて前後に予定を組むのが普通になっていました。
同年代のOLよりはもらっていたはずのお給料も、仕事の疲れを癒すマッサージとストレス発散のために消え、預金残高を見ては「なんでお金がないんだろう?」と本気で疑問に思っていました。
時間もない、お金もない、不健康…
完全に負のスパイラルです。
しかしやはり若かったのもあり、「仕事のやりがい」というエネルギーと体力だけで突っ走っていました。
大きなターニングポイント
しかしそんな私にもターニングポイントがやってきます。
ずばり、結婚です。
彼氏(現旦那)が、突然プロポーズをしてきたのです。色気のない居酒屋で。
当時は付き合いも長く、多忙のためまともにデートもせずにたまに仕事終わりに飲みに行くくらい、正直ときめきなんて全くありませんでしたが「結婚」となれば話は違います。
男性社員にも負けじとバリバリ働き男性ホルモンが過剰分泌されていそうだった私も、久々にキュンとした感覚がありました…!(居酒屋だけど←根に持つ)
社会人2年目の私たち。まだまだ結婚に焦る年齢ではなかったのですが、お付き合いを始めた当初から「早く子どもが欲しい」という共通認識がありました。
二十歳の頃に初めて受けた婦人科検診で右の卵巣に嚢腫が見つかり、すぐに切除する手術を受けたのですが、「卵巣嚢腫は再発も多いから早く子ども産んじゃった方がいいわね〜!」というベテラン看護師さんの何気ない言葉が妙に響いていたのが大きいです。
そしてプロポーズから両家顔合わせ、入籍、挙式までは滞りなくトントンと進み、いざ子作りという段階で初めて壁にぶつかります。
私は入籍のタイミングで当時の仕事を「寿退社」という名目で退社し、すぐに夫の扶養の範囲内でのアルバイトに切り替えました。
そして何となくの知識で妊活を始めて半年ほど経った頃に妊娠判明。
望んで叶った妊娠。
嬉しくて仕方のないことであった反面、貯金も満足に出来ていない不安、やっと慣れてきたアルバイトは今後続けられるのかという不安、あのとき飲んだお酒の影響は大丈夫?、栄養バランス偏ってなかったかな?、2人っきりの新婚生活も終わりかというちょっぴり寂しい思い…
色んな感情が一気に押し寄せてきて「今じゃなくても…」という思いが頭をよぎりました。
しかし 、産婦人科で超音波検査をして無事に母子手帳を受け取ってからはそんな感情も忘れ、これから始まるマタニティーライフにワクワクするのでした。
3回目の定期健診にて
胎嚢が小さかった初回の検査から2回目の検査までは1週間の期間を空けて受診するように促され、2回目の検査で成長した胎嚢と心拍確認ができたので、母子手帳を受け取るための「妊娠届出書」を発行してもらいました。
母子手帳を持っての初めての健診。
体重、血圧、尿検査という健診までの流れを丁寧に説明して頂き、「これから出産までこうやって健診受けるのね〜!覚えておかなきゃ!」と、こんな些細なことにもいちいち喜びを感じていました。
そして自分の番になり、超音波検査です。
我が子の成長が知りたくてウズウズしていた私ですが、先生が発した第一声は「…前回の検査では心拍確認できてましたよね?」でした。
「はい…」と答えて先生の様子を伺うと、別の先生と2人で難しい顔をして画面を見つめていました。
「赤ちゃんの心臓が止まっています。」
頭が真っ白になりました。しかし、不思議と冷静に受け答えしていた自分がいました。
「稽留流産というもので、赤ちゃんがお腹の中で心臓の動きを止めて亡くなってしまった状態です。妊娠初期には少なくないものです。」
このようなことを聞かされたあと、今後の処置について事務的に説明されました。
今思えば、毎日何十人もの患者さんを相手にする産婦人科の先生なんだから事務的になるのも仕方ありません。
幸せいっぱいの妊婦さんや、命の誕生だけでなく、不妊治療もあれば、中絶に立ち会うことだってあるでしょう。過酷な労働環境の中、先生方が精神を保つのはきっととんでもなく大変なことです。
それでも、当時の自分はとにかく悲しくて、ひとりぼっちで、情けなくて、無力で、何の役にも立てていないような、そんな気持ちでした。
私の場合は妊娠10週での稽留流産だったので、4日後に掻爬手術という、赤ちゃんを取り出す処置を受けることになりました。
診察室を出ると、待合室には大きなお腹を抱えた妊婦さんがずらりと並んでいます。その中でしばらくじっと耐え、助産師さんに指導室という小さな部屋に呼ばれました。
掻爬手術に関する詳しい説明を聞くためでしたが、助産師さんは泣きもせず冷静な私の様子を見て「お母さん、つらかったね」と一言。
もう、その一言で我慢の糸がプチっと切れ、涙が溢れて嗚咽してしまいました。
「泣いていいんだよ〜!」と優しく肩をさすって下さった助産師さんのことは今でも覚えています。そこで
- 稽留流産は決して少なくないこと
- お母さんのせいではないこと
- 誰も悪くないということ
を丁寧に説明して頂きました。
初めて知ることばかりで、「赤ちゃんが欲しい」という気持ちはずっとあったにも関わらず、あまりにも無知だった自分を恥じました。
ドン底に落ち込んだ日々
「お母さんのせいではない」といくら言われても、今までの自分の行動を振り返っては後悔をするばかりでした。
そこで特に後悔したのが、会社員時代からダラダラ続けてしまった悪い食習慣と、妊娠発覚してすぐによぎった「今じゃなくても…」という思い。
私の身体の環境が悪かったから…
「今じゃなくても…」って思ったから…
赤ちゃん還っちゃったのかな?
過ぎたことはどうしようもないのに、何度も何度も悔やみました。
しかしいつまでも落ち込んでばかりいるわけにはいきません。様々な人の助言やきっかけもあり、少しずつ前向きな気持ちでいられるようになりました。
それからは「次の赤ちゃんは準備万端で迎えてあげよう」という新しい目標ができ、体質改善をするために様々なジャンルの本を読み漁り、セミナーや講演会にも足を運び、食生活も徹底的に改善しました。
するとみるみるうちに基礎体温も安定し、頭痛も下痢もなく過ごすことができました。
一度効果を感じてしまえばもうこっちのもので、ますますこだわるようになり、手料理の腕も勝手に上がっていきました。
今まで昼食はコンビニで済ませてもらっていた夫にも、毎日手作りのお弁当を持たせるようになり、大変喜ばれました。
やがて健康にこだわることは私にとって趣味になり、気が付けば食事に限らず日用品や身に付けるものまで厳選することが我が家にとって普通のことになりました。
流産はとても苦しく、できればしたくない経験でしたが、夫婦になってから初めて真剣に話し合い、困難を乗り越えた経験にはなりましたし、何よりも我が家の生活を大きく変えるきっかけになりました。
一度私のお腹に宿ってくれた我が子は、そんなきっかけを運んでくるのが使命だったのかなと思うようにしています。
今家族がみんな健康なのも、あのときの我が子のおかげ。ありがとう!
流産の悲しみから立ち直った経緯も、近々詳しく書こうと思います!